06 尿瓶 

  もう、一度ならず、ベッドでは不毛なことが起こったので、にんじんは毎晩、例のことに関して、とくに気を配って用心している。夏はそれがたやすくできる。九時になって、ルピック夫人に寝室へ追いやられると、にんじんはみずから進んで外を回ってくる。これで、安心した一晩を過ごすことができる。

 冬はこの散歩も苦役に近いものとなる。日が落ち、鶏小屋をしめると、かれはただちに第一の用心をするのだが、しかし、だめだ。とてもよく朝までご利益があるとは、期待できない。夕飯をおえ、眠らないでいると、九時が鳴る。もうだいぶ前から夜だ。そして、夜は、まだまだ永遠につづくのだ。にんじんは第二の用心をしなければならない。

 そこで、その晩も、いつもの晩とゞように、こう自分にきいてみる。

――でるかい? でないかい?

 そうすると、ふだんは「でる」と答えがある。とはいっても、それは、どうにも堪えきれなかったり、あるいは、月がその明るい光で勇気づけてくれる場合である。ときには、ルピック氏と兄のフェリックスが手本をみせてくれる。それに、その必要さからいって、かならずしも家から遠くに、ほとんど野原のまっただなかにある、大通りのどぶにまで行くことはない。たいがいは階段の下どまりである。まあ、時と場合によりけりというわけだ。

 だがその晩は、雨が窓ガラスに、まるで篩の穴をつくるようにうちつけ、風は星を消し、くるみの木は牧場で荒れ狂っている。

――いいあんばいだ、と、にんじんは慎重に納得したのちに、こう結論を下す。でたくないな。

 かれは一同にお休みなさいをいい、蝋燭をるけ、廊下の端の右手の、飾りけもなく、寂しい自分の部屋にはいる。着物をぬぎ、横になり、ルピック夫人のおいでを待つ。掛けぶとんをベッドの縁に、ぐっと、強くおりこみ、かれを押えつける。そして、蝋燭を吹き消す。蝋燭はそのまま残していってくれるが、マッチはけっしておいていかない。彼が恐がりなので、戸に鍵をかける。すると、にんじんは、まず第一に、一人ぼっちの楽しさを味わう。かれは、暗闇のなかで物思いにふけるのが好きだ。その日にあったことを思い返してみる。しばしば危機をうまく脱したのは、なんとしてもうれしい。あしたもまた、同じような好運を期待したい。かれは、せめて二日もつづいて、ルピック夫人が自分に注意をしないでくれたら、と心ひそかに願う。こんなことを夢みながら、かれは眠ろうとする。

 だが、目をつぶったかと思うと、たちまちかれは、いつもの、あの不快さを感じ始める。

――どうにもしようがない、とにんじんは思う。

 こんなときには、ほかの人間ならばきっと起きるだろう。しかし、にんじんはベッドの下の尿瓶のないことを知っている。ルピック夫人は、天に誓ってそんなことはないと言い張るのだが、いつも持ってくるのを忘れているのだ。もっとも、にんにんはかならず例の用心をするのだから、あんな尿瓶がなんの役に立つというのか?

 それで、にんじんは起きようとはしないで、あれこれ理屈をならべる。

――おそかれ早かれ、どうせいやでもお手上げさ。それなのに、堪えれば堪えるほど、ますます溜まってくる。ここで今すぐだしてしまえば、少しですむわけだ。シーツだって、体温でじきに乾いてしまうだろう。今までの経験からいって、お母さんなんかに、一滴のしみだって、ぜったいにみつかりはしないさ。

 にんじんは気が楽になる。安心しきって目を閉じる。そして、ぐっすり眠ってしまう。

 はっと、かれは目をさます。腹ぐあいを確かめようと、耳を傾ける。

――ああ! しまった! まずいことになったぞ! と、かれはいう。

 さっきは、今夜こそ安全と思っていたのに。虫がよすぎることだった。昨晩、無精をして寝たのがいけなかったのだ。それ相応の罰は、たちまちにしてやってくる。

 かれはベッドの上にすわり、あれこれ考えてみる。戸には鍵がかかっている。窓には格子がある。外には出られない。

 しかし、かれは起き上がり、戸や窓の格子に手をふれてみる。床の上に腹ばいになり、両手をオールをこぐように動かしながら、ないにきまっている尿瓶を探す。

 かれはベッドに横になる。そして、また起き上がる。眠るよりは、動き回り、歩き、床を踏みならしているほうが、まだましだ。両手の拳で、張ってくる下腹を押し返してみる。

 ――お母さん! お母さん! 聞かれてはまずいので、気の抜けた声でかれはこう叫ぶ。というのは、もしルピック夫人が、とつじょ姿をみせるなら、にんじんはなにくわぬ顔をして、彼女をばかにしているようすをするだろうからだ。かれはただ、あしたになって、たしかに呼んだよ、と嘘でなしにいうことができればいいのだ。

 そうはいっても、いったいどのようにして、かれは呼び叫んだらいいのだろう? 力という力はすべて、災難をおくらせるために使ってしまっている。

 やがて、なにかしら激しい苦痛のために、にんじんは踊りだす。壁につきあたり、はね返る。ベッドの金具にぶつかる。椅子につっかかり、ストーヴにつきあたる。かれは猛烈な勢いで通風版をあける。そして、からだをよじる。どうにもがまんができなく、ぜったいの幸福を味わいつつ、薪掛けに襲い掛かっていく。

 へやの暗さは、ますます深くなってくる。

 

 にんじんは、夜明け方になってからやっと眠った。だからかれは今、朝寝をしている。ルピック夫人が戸をあける。そして、どんな逆方向からでも、臭いを嗅ぎわけられるといったようすで、顔をしかめる。

――なんて変な臭いがするんだろうね!

――お早よう、お母さん、と、にんじんはいう。

 ルピック夫人はシーツをむしり取り、部屋のすみずみを嗅ぎ回る。発見するのに手間はかからない。

――ぼく、病気だったんだよ。尿瓶がなかったんだもの。にんじんは大急ぎで訴える。こういうのが、いちばんの言いわけだと判断したからだ。

――嘘つきもの! 嘘つき! ルピック夫人はどなる。

 彼女は部屋を飛びだし、尿瓶を隠しもって、戻ってくる。そして、ベッドの下に、すばやくそれを滑りこませると、棒立ちのにんじんに平手打ちを食わせる。さらに、家族のものたちを呼び集め、どなり散らす。

――こんな子どもをもつなんて、いったい、なんの巡り合わせだろう?

 こういいながらすぐに雑巾とバケツをもってくる。まるで火消しでもするように、ストーヴに水をぶっかける。寝具をゆすぶる。それから、せわしく、哀願するように、「さあ、空気をかえて! 空気をかえて!」と喚きたてる。

 それが終わると、こんどは、にんじんの鼻先で身ぶりも派手にしゃべりだす。

――しようがないね! まったく阿呆な子だよ! いよいよおかしくなってきたね! おまえのすることったら、動物と同じさ! 動物だって尿瓶が渡されていりゃ、それを使うことぐらい知っている。それなのにおまえときたら、 ストーブの中なんかに寝ころがろうとしたりして。神さまだってきっとお認めになるだろうよ、あたしの気が変になるのもむりはないとね。気が狂って、ほんとにそうだよ! 気が狂って死んじまっても致し方ないとね。

 にんじんは肌着一枚で、素足のまま、尿瓶をみている。昨夜は、たしかに尿瓶はなかったのに、今、それが目の前に、ベッドの脚もとにある。この空の、そして白い尿瓶はかれの目をくらませる。かりに、ぜったいにこんなものは、みえなかったと言い張れば、今度は、あつかましいといわれるにちがいない。

 家族のものは悲嘆にくれたようすをしているので、次々をやってきた、冷やかし好きな近所の連中や、ちょうどきあわせた郵便配達が、にんじんにうるさく質問をあびせてくる。そこで、にんじんはついにたまりかねて、

――だれが嘘なんかいうものか! と尿瓶に目をやりながら、答える。 ぼくはもうなにも知らないよ。 好きなようにしたらいいさ。